2005/ 2/19(1)
サントリーホール
初日の夜は「サントリーホール」。ダニエル・バレンボイム指揮ベルリンシュターツカペレ。待望久しいオーケストラの演奏会だ。数日前にチケットをとったので、少々お高い席だが、写真で解るとおりステージまで数メートルのところ。ボクの好みはステージに向かって右側の「RB」ブロックだが、既に売り切れていて反対側の「LB」が本日のシートとなった。
しかしこれが大正解だった。このオーケストラは配置が「古典的」で、第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンが左右対称にわかれ、左横にチェロ、その後ろがコントラバスというレイアウトだったので音響的に「ベスト」。演目はベートーベンのピアノ協奏曲第4番、シューマンの第4交響曲。バレンボイムは幼いころから「天才ピアニスト」として高名な人で、最近は指揮者として大活躍。ベルリンシュターツカペレとは、日本語で言えばベルリン国立歌劇場管弦楽団。彼は今ここの音楽総監督。ピアノを弾くことは最近では稀になっていたので、ピアノを弾きながら指揮をするこの演目が今日のお目当て。よかった。アンコールで弾いてくれたシューベルトの即興曲も最高。後半のシューマンはまさにドイツのオーケストラで聴くべきドイツの芸術たる名演。さらに感激はアンコール。何とマーラーの交響曲第5番のアダージョ。ブラボーっ!
マーラーをやる日曜のマチネと悩んだ末、今日を選んだのだが、すべて「大正解」。大感動の夜となった。
2005/ 2/19(2)
ラジオの時間
演奏会の感動の余韻に浸りながら、小雨の六本木から南青山までタクシー。アフターコンサートのお目当ては「バー・ラジオ」。素晴らしい写真付きの「カクテルブック」まで出版されいてるほど凄いバー。店主の尾崎さんはこの業界では伝説的な人。原宿に1号店「ラジオ」があり、南青山は「2ndラジオ」。ココは初めてだ。とにかくノドが渇いていて、ゴードンジンのトニックを立て続けに2杯。そして見たことのないラベルの「ラフロイグ」を、、、。これが、度数も味もスゴくて、他のモルトを試す気にもなれないほどだ。やはり、ココに来たら尾崎さんのカクテル。彼がシェイカーのポジションに居る時を狙って「サイドカー」。地味なアクションだが、絶妙なシェイクで「美味しいっ」。ググッと半分ぐらい一気に飲んだら「飲むのがお早いですね」と声をかけられた。
「いやぁ、美味しいもんで」と言いたかったが、それでは大御所にはベタベタのミーハー丸出しなので「今日はノドか渇いてて、、」とかなんとか、、、。更に話が弾んだ。原宿のお店は数年前に閉められたとか、、、。しかし内装の素材をそのままどこかに保管されていて「いつか復活したい」とのこと。有名人がいっぱい来るバーなんだから出資者はいるだろうに、、、。「本当の文化を知るパトロン」が欲しいと言われ「お金があればいくらでも、、、」「是非お願いします」と真顔の尾崎さんに、最後の一杯、村上龍絶賛の「ギムレット」をお願いした。実に満ち足りた時間だった。
2005/ 2/20
昨日は横浜に戻ってからも数件回り、そんなこんなで飲み過ぎて、起きたらお昼前だった。せっかくの朝食にも間に合わず、不覚。東京競馬場に行く予定もそんな元気がなく、ボーっとホテルの部屋でテレビ観戦。結果的には行かなくて正解(笑)。部屋の風呂にゆっくりつかり、夕方から行動開始となった。
横浜の能見台という街は郊外の住宅地で実に魅力的な街だ。アトリエのスタッフだったMちゃんが、夜は能見台のお店で働いていて、それがこの街と出会うきっかけだった。「焼き鳥まいど」「醇風満月堂」「キャットフィッシュ」といった名店の数々に、佐平治の蔵と殆ど同時期に開店したMちゃん独立第一号店「穴」が加わった。今日はそこでじっくりと時間を過ごした。横浜に帰るたびに伺っているので、Mちゃんと、一緒にやっているY司のコンビが醸し出す空気にやっぱりホッとしてしまう。思えばMちゃんとの付き合いも長い。
アトリエで数々の伝説を作った彼のことだ、この地元の地で新たなる神話を築いてくれていると信じている。
(ちなみに写真中央はタダの酔っぱらいN夫人。)
2005/ 2/21(1)
中華街
来るたびに少しずつ何かが変わる横浜の街。ここ一年の変化はやはり「地下鉄・みなとみらい線」の開通だろう。東急東横線がその地下鉄に乗り入れて、渋谷−みなとみらい−元町・中華街を一本で結んだ。突如、中華街はもちろん、寂れ気味の「元町」に導線が出来、人の流れが一気に変わった。中華街は活気を更に増し、山下公園側への門周辺は写真のように賑々しく生まれ変わっていた。
この地下鉄は相当前から工事をしていたが、桜木町と関内を結ぶあたりの地下トンネルに水が出てそれに手間取り、恐ろしいぐらい開通が遅れていた。結局2002年のサッカーW杯にも間に合わず、ようやくもようやく昨年2月開通したというワケだ。
横浜時代の店・アトリエはちょうど地下鉄とJRの間の「微妙な」位置にあったので、もしも地下鉄が間に合っていれば、新しい展開もあったかも、、、。まあ、タラレバ話はナンセンス。
アトリエの跡は、何の動きもなく、ひっそりしているままだった。
2005/ 2/21(2)
何と何とっ!
最終日の夜。元町の「Bar・En」に寄った。今回「お土産」として持参した、例の絶品・イカの麹漬け。最後の1つはここのため。
店主・遠藤氏と「同い年」という1968年のモルトや、日本のオーシャンウィスキー軽井沢蒸留所の原酒で、1982年物という珍しいお酒を頂いた。「こうじ漬け」も他のお客さんたちに振る舞われ、大好評。当然、故郷・香住の話になり、例により位置の説明から何から始めることとなったが、先日の「ダーツの旅」効果もあり「ああ、あそこかぁ」。
と、突然、隣で飲んでいた女性が「アタシ、香住に行ったことある〜」と声を挙げた。
えっ、おいおい、マジかよ。昨年の11月に「友達の友達」のコネで来たらしい。朝着いて、泊まりはしなかったが「余部鉄橋」「岡見公園」などを一通り回り、その知人宅でカニの食事、そして矢田川温泉にも入って帰ったとか、、、。何と何と、世の中狭いねぇ、、、。こうじ漬けがきっかけで、香住の話で盛り上がる、、、なんて参った参った。
明日はボクも香住。大雪が降っているという情報。
「帰れるのか?」と一抹の不安を胸に、元町をあとにした。
2005/ 2/22
仕事モード
春を感じる天候の中、飛行機も問題なく飛び、鳥取に降り立った。雪もなく、ちょっと拍子抜け。帰り道、鳥取のジャスコで買い出し。仕事モードだ。
しかし段々香住に近づくにつれて格段に積雪量が多いのが気がかりだった。町内に入り、道路は既に問題ない状態でひと安心。しかし、天候は晴れ渡ってかなり融け来てはいるが、屋根を見ると結構降ったのが伺える案の定、店の入口は雪に覆われていた。到着後、まずは雪掻き。

3日間の贅沢なリフレッシュタイムは終わり。午後6時の開店、予約の準備に向け「変身」。
東京、横浜の皆々様お世話になりました。数日は、撮った写真の数々もあるので回想レポート致します。
2005/ 2/23
まのじ
昨夜は開店と同時に怒濤のような状態で、「現実」に引き戻されるに「余りある」営業となった。フローズンカクテルの雨、嵐、、、で、都内の老舗バーから盗み取ってきた「シェイク」のワザを繰り出すには至らずだったが、ありがたいねぇ、、、。リハビリ1発目にしてはキョーレツな復活初日。
こういう日こそ、店がハネてから横浜に飛んでって寄りたいのが「まのじ」。創作料理の居酒屋。横浜・関内駅に程近く、路地をちょっと入ったわかりやすい場所にあるオススメの名店。主人のテルオ君とは、一時期アトリエのランチタイムに働いてもらっていたこともあり、浅からぬ仲間。さらに、そこに集う彼の同級生を中心とした仲間がまた素晴らしい。昨年の夏に突然「佐平治の蔵」に来てくれた4人もここの仲間だ。今回の「里帰り」で、自分がこの仲間たちから相当な「パワー」をもらっていたことを改めて感じた。最近のパワー不足はここらにも原因があったというワケだ。
ここでのMY定番は通称「麦っちゅ」。焼酎を麦茶で割る。そして、オリジナリティに溢れたお料理をちょっとつまむ。仲間とバカ話(時にはマジ話)で盛り上がる、、、、そんな時間が「チカラ」になるよね。
「まのじ」のHPへ
2005/ 2/24
ラジオの時間 2
バー・ラジオでの時間は今回一番印象に深い思い出となった。実は、演奏会の後、乗ったタクシーの運転手の勘違い(?)で、別の場所に降ろされて、小雨の青山墓地をあちこち彷徨った。傘もなく、墓場をウロウロする姿は他人からきっと奇異に映ったことだろう。ようやく見つけた「ラジオ」は例によって目立たない小さな看板で、入口も知っていなければ入れない程暗い。引き戸をおそるおそる開けると、薄暗い階段。降りて、若いバーテンにさりげなくカウンターに案内されると、ようやくたどり着いたという安堵と緊張が入り交じった気分だった。そんなことがジントニックの速攻につながったのかも知れない。実は恥ずかしながら予習不足で、原宿の「ラジオ」が閉まったのも、近くに「3rdラジオ」がオープンしていたのも知らなくて、カウンターの中に尾崎さんが居たことは、実に不勉強の賜(?)だったのだ。最新刊「バー・ラジオ・カクテルブック」を見てもわかるけど、コメントやエッセイを寄せているお客さんたちは多士済々。尾崎氏の、背丈や腰の低さに反するところの、教養や美意識の高さが友を呼び、引きつけ、両者の間に極上の空気を創り上げるのだろう。
こんな、どこの馬の骨ともわからない田舎者と、目線を合わせて、実にインスピレーション満載のお話をして頂く大御所に「もてなし」の基本を学ばせて頂いた。
ボクの内では、やってる人間と心の通わない、ぺらっぺらの、なんちゃってバーは、はっきり言ってもう必要ない。
2005/ 2/25
我が青春のアンセルモ
東京は府中、京王線・中河原。ここはボクの青春の地だ。上京して2ヶ月は八王子に住んだが、不便さに耐えかねてこの地に引っ越した。もう25年も前の話だが、、、。初めてこの駅に降り立ち、住まいになる所へ案内してもらう時、当時まだ豚舎や鶏舎があって「おいおい、ここも東京かよ〜」と思ったことが懐かしい。今ではファミレスやコンビニがひしめく「街道の街」として、より一層賑やかなようだ。
当時、友人の紹介でアルバイトを始めたのが、駅前の路地を少し入ったところにある「アンセルモ」。雰囲気のある、純粋な喫茶店。以後ここには10年近くもお世話になることになるが、まさに青春そのものだ。飲食業界に関わる第一歩でもあったし、たくさんの人に出会い、たくさんの出来事に遭遇し、たくさんの事を覚えた。ミニFMを始めたのもこの街だ。
この店は今年の秋「30周年」を迎える。当時はよちよち歩きだった息子のT君が今では店を支えている。彼とは誕生日も血液型も同じで、成長をつぶさに観察してきたこともあり他人とは思えない。彼の目覚ましい成長に自分の成長の無さを恥じるばかりだが、秋の「節目」にはまた訪れたいと思っている。そのころ我々はまた歳を1つ重ねるのだが、、、。
「アンセルモ」HPへ
2005/ 2/26
バレンボイム
あのサントリーホールの感動から既に一週間、と思うと、時の移り変わりはやはり早い。早すぎる、、、。
バレンボイムが名ピアニストであることはご存じの通り。彼のピアノも指揮もボクにとっては今回が初めて実演に触れる機会となったが、例によってとっても「お買い得」な内容で大感激だった。特にピアノ。指揮者としても評価が高いのは言うまでもないが、どうしてもピアニスト・バレンボイムの印象がありすぎるのか、オーケストラの曲の仕上げ方も彼のピアノそのもので、ピアノコンチェルト、ピアノだけのアンコールのシューベルト、シューマンのシンフォニー、アンコールのマーラー、と、ずーっと彼のピアニズムの中にいた。今後は「指揮者・バレンボイム」をもっともっと感じたい。
彼の奥方は、もう亡くなってしまったが天才チェリスト、ジャクリーヌ・デュ・プレ。不治の病に冒され、16年難病と闘って42歳で死に至った。最近「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」という映画で、その生涯が赤裸々に暴露されて、ヘンなことで一般に名が広まったが、この映画の内容が真実か否かは問題ではない。病魔に蝕まれる前の短い時間、バレンボイムと出会ったゆえに、2人で数多くの名演を生み、録音や映像で未だに我々を感動させてくれていることが「真実」だろう。そして彼のパフォーマンスの中に彼女が生きている。


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